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こぼれ話


神の民の集い


教会:ekklesia
 

 私たちは「共同体」に何を求めるでしょうか。それは、他者との一体感、あるいは自分が受け入れられているという感じや、家庭にいるようなくつろぎの体験かもしれません。そこに集まる人々が互いに支えあい、励ましあうことが期待されます。そして、私たちは家庭をはじめ、誰もがそうした「共同体」を持っており、その中で安全に、安心して生きています。  ところがキリストは、私たちが日頃から慣れ親しみ、安住している、こうした共同体から離れるように呼びかけます。
  「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」(ルカ9:60)。
  「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」(同62)。
  「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」(同14:26)。
  「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」(同18:22)。
 キリストのこのような呼びかけは、私たちをどこに招こうとするのでしょうか。それは、日常的な安住の場から離れることによって、私たち一人ひとりに自分の真実の有り様を体験させるためではないでしょうか。私たちは誰でも、神への道を辿る巡礼者であり、例外なく神の恵みを必要とする罪人です。他のすべての人々と同様に、根本的に不安定な状態の中で生きているのです。  教会を意味するギリシア語ekklesiaは、ek(外へ)という言葉とkale(呼ぶ)という言葉からできており、神の民の集いである私たちが、日常的に慣れ親しんだ場所から外へと呼び出されていることを指しています。そして、そこでこそ、私たちは神のみ前での真実の自分と出会い、小さく弱い存在としての自分を体験するのです。  教会の本質ともいえる「外へ」の「招き」は、人間同士が、お互いに似たような欠乏や葛藤をもつ者として理解し合い、共通の弱さを持つものとして出会うことを可能にします。そして、以前には感じられなかったものを他者と共に感じられるようにし、以前には聞けなかったものを他者と共に聞けるようにします。  自分と他者を区別して、自らの内に安住してしまうのでなく、他者と同じ立場に立てるように、特別な世界に身を置くのではなく、どんな場所にも身を置けるように、今こそ、私たちの教会は「外」の向かって「呼ばれて」いる集いであることを思い起こしたいものです。


2006年4月3日(月)K.K


※この「こぼれ話」は、当委員会関係者が定期的に執筆しています。毎回執筆者が異りますので、内容や体裁は毎回異なります。




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