Message of His Holiness Pope Francis in different languages
第111回「世界難民移住移動者の日」教皇メッセージ
2024年9月28日
移住者――希望の宣教者
親愛なる兄弟姉妹の皆様。
わたしの前任者の教皇フランシスコが聖年の「移住者の祝祭」(2025年10月4日-5日)と同じ日(日本では9月の最終日曜日の2025年9月28日に記念する)に祝うことを望んだ、第111回「世界難民移住移動者の日」は、希望と移住と宣教のつながりについて考察する機会をわたしたちに与えてくれます。
現代の世界情勢は、残念ながら、戦争と暴力と不正と異常気象によって特徴づけられています。そのため何百万もの人々が故郷を離れ別の土地に避難することを余儀なくされています。限られた共同体の利潤のみを求める一般的な傾向は、責任の共有、多国間の協力、共通善の実現、人類家族全体のための国際的な連帯に対して深刻な脅威となっています。新たな軍拡競争、核兵器を含む新兵器の開発、進行中の気候危機の悪影響の考察の欠如、深刻な経済格差は、現在と未来の課題をますます増大させています。
地球規模の破壊の可能性と恐るべき情景を目の当たりにして、全人類のための尊厳と平和に基づく未来を希望する望みがますます多くの人の心の中に育つことが重要です。この未来は、人類と他の被造物に関する神の計画の不可欠な部分です。それは預言者によって先取りされたメシア的な未来です。
「エルサレムの広場には
再び、老爺、老婆が座すようになる
それぞれ、長寿のゆえに杖を手にして。
都の広場はわらべとおとめにあふれ
彼らは広場で笑いさざめく。……
平和の種が蒔かれ、ぶどうの木は実を結び
大地は収穫をもたらし、天は露をくだす」(ゼカリヤ8・4-5、12)。
この未来はすでに始まっています。なぜなら、それはイエス・キリストによって開始されたからです(マルコ1・15、ルカ17・21参照)。そしてわたしたちは、この未来が完全に実現することを信じ、また希望しています。なぜなら、主はつねにご自分の約束を守られるからです。
『カトリック教会のカテキズム』は次のように教えます。「希望の徳は、すべての人の心に神がともしてくださった幸福へのあこがれにこたえるものです。人間の行動を活気づけるさまざまな希望を吸収し……ます」(同1818)。そして、希望の追求――そして、希望を別の場所で見いだすことへの期待――が、現代人の移動の主要な動機であることは間違いありません。
移住と希望の結びつきは、現代の多くの移住の経験の中にはっきりと示されます。多くの移住者、難民、避難民は、彼らが神に身をゆだね、未来のために逆境に耐えることを通して、日々の生活の中で生きる希望の特別な証人となっています。彼らはこの未来の中に、幸福と総合的な人間的発展が近づくのを垣間見るからです。彼らにおいてイスラエルの民の旅の経験が繰り返されます。
「神よ、あなたが民を導き出し
荒れ果てた地を行進されたとき
地は震え、天は雨を滴らせた
シナイにいます神のみ前に
神、イスラエルの神のみ前に。
神よ、あなたは豊かに雨をたまわり
あなたの衰えていた嗣業を固く立てて
あなたの民の群れをその地に住ませてくださった。
恵み深い神よ
あなたは貧しい人にその地を備えられた」(詩編68・8-11)。
戦争と不正の暗闇に覆われた世界の中で、すべてが失われたかのように思われるときにも、移住者と難民は希望の使者として立ち上がります。彼らの勇気と粘り強さは、英雄的な信仰のあかしです。この信仰が、わたしたちの目が見ることのできるところを超えたものを見、現代のさまざまな移住の道で死に打ち勝つ力を彼らに与えます。ここにも、砂漠をさまよったイスラエルの民の経験との明らかな類似を見いだすことができます。イスラエルの民は、主のご保護に信頼しながら、あらゆる危険に立ち向かったからです。
「神はあなたを救い出してくださる
仕掛けられたわなから、陥れることばから。
神は羽をもってあなたを覆い
翼の下にかばってくださる。
神のまことは大盾、小盾。
夜、脅かすものをも
昼、飛んで来る矢をも、恐れることはない。
暗黒の中を行く疫病も
真昼に襲う病魔も」(詩編91・3-6)。
移住者と難民は教会に、自らの巡礼者としての側面を思い起こさせてくれます。教会は、対神徳である希望に支えられながら、最終的な祖国に到達することを目指してたえず歩み続けるからです。教会は、「定住」の誘惑に屈し、「旅する国」(civitas peregrina)――天の祖国を目指して旅する神の民(アウグスティヌス『神の国』[De civitate Dei, Libro XIV-XVI]参照)――であることをやめるとき、「世にある」者であることをやめ、「世に属する」者となるのです(ヨハネ15・19参照)。この誘惑はすでに初期キリスト教共同体に存在していました。そのため使徒パウロはフィリピの教会にこう思い起こさせなければなりませんでした。「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しいからだを、ご自分の栄光あるからだと同じ形に変えてくださるのです」(フィリピ3・20-21)。
とくにカトリック信者の移住者と難民は、彼らを受け入れる国において、現代の希望の宣教者となることができます。彼らは、イエス・キリストのメッセージがまだ届いていないところに新たな信仰の歩みをもたらし、日常生活と共通の価値の探求による諸宗教対話を始めることができるからです。実際、彼らは、その霊的な熱意と活力によって、硬直化し、不活発になった教会共同体を活性化することに貢献できます。こうした教会共同体では、霊的な砂漠が不吉なしかたで広がっています。それゆえ、カトリック信者の移住者と難民の存在は、真の意味での神の祝福として認識され、評価されなければなりません。それは、新たな力と希望をご自身の教会に与える、神の恵みに心を開く機会です。「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました」(ヘブライ13・2)。
聖パウロ六世が強調したとおり、すべてに超えて、福音宣教の第一の要素はあかしです。「すべてのキリスト者は、この『あかし』に召されています。そして、このことによって真の福音のあかし人となることができるのです。わたしは移民を受け入れている国における移民たちの負う責任についてとくに思いを馳せています」(『福音宣教』21[Evangelii nuntiandi])。これが真の意味での「移住者の宣教」(missio migrantium)
――移住者によって実現される宣教――です。この「移住者の宣教」のために、適切な準備と、効果的な教会間の協力による継続的な支援を確保しなければなりません。
他方で、移住者を受け入れる共同体も希望の生きたあかしとなることができます。この希望とは、そこですべての人の神の子としての尊厳が認められるような、現在と未来の約束です。こうして移住者と難民は家族の一員である兄弟姉妹として認められます。この家族の中で、彼らは才能を発揮し、完全な意味で共同生活に参加することができるのです。
教会がすべての移住者と難民のために祈る聖年の祝祭にあたって、わたしは、すべての旅路を歩む人々と、彼らに同伴しようと努める人々を、移住者の慰めであるおとめマリアの母としての保護にゆだねたいと思います。おとめマリアが、彼らの心に希望を生き生きと保つとともに、ますます神の国と似たものとなるように世界を築こうとする彼らの決意を支えてくださいますように。このまことの祖国が旅路の果てでわたしたちを待っているからです。
バチカンにて、2025年7月25日、聖ヤコブ使徒の祝日
教皇レオ十四世
「2025年世界難民移住移動者の日にあたって」
毎年9月の最終日曜日に記念する「世界難民移住移動者の日」には、テーマと教皇メッセージが発表されます。今年は、聖年の最中でもあるところから、前教皇フランシスコが残したテーマ「移住者――希望の宣教者」が選ばれました。難民という極めて困難な状況に置かれた人々が、希望を捨てずに何とか生き延びようとしている姿は、私たちの心を激しく揺さぶります。私たちに何とか力を貸すことは出来ないのかという思いと同時に、難民となった人々の「勇気と粘り強さ」です。
今年のテーマには、移民、難民の姿は私たちに未来の「祖国」への到達を思い起こさせること、また受け入れ先の共同体との「対話の促進」を生み出しているなどの意味が込められています。私たちも、難民、移民となった人々のために祈り行動することで、共に神への信頼に導く「希望の巡礼者」となっていきましょう。
2025年8月18日
日本カトリック難民移住移動者委員会
委員長 松浦悟郎